本のノード

おもに人文書の概要まとめ・詳細目次・引用を載せています。買いたい本の検討や学生のレジメづくりのご参考に。

宮沢賢治「フランドン農学校の豚」

この短編は、冒頭の数ベージの欠落がある。が、おそらく舞台はヨーロッパ(フランス)であり、人語を解するブタ(ヨークシャイヤ)が主人公。
 
人間たちは現状、かなり上質な扱いをしてくれているのだが、その裏では何やら恐ろしいことを自分にしようとしているのではないか、とブタは悩み、ふさぎ込む日々を過ごす。
 
第一の引用は啓蒙君主からの同意書に関する発令から始まる。
 
 ところが、丁度その豚の、殺される前の月になって、一つの布告がその国の、王から発令されていた。
 それは家畜撲殺同意調印法といい、誰でも、家畜を殺そうというものは、その家畜から死亡承諾書を受け取ること、又その承諾証書には家畜の調印を要すると、こう云う布告だったのだ。
 さあそこでその頃は、牛でも馬でも、もうみんな、殺される前の日には、主人から無理に強いられて、証文にペタリと印を押したもんだ。ごくとしよりの馬などは、わざわざ蹄鉄をはずされて、ぼろぼろなみだをこぼしながら、その大きな判をぱたっと証書に押したのだ。
 フランドンのヨークシャイヤも又活版刷りに出来ているその死亡証書を見た。見たというのは、或る日のこと、フランドン農学校の校長が、大きな黄色の紙を持ち、豚のところにやって来た。豚は語学も余程進んでいたのだし、又実際豚の舌は柔らかで素質も充分あったのでごく流暢な人間語で、しずかに校長に挨拶した。「校長さん、いいお天気でございます。」
 校長はその黄色な証書をだまって小わきにはさんだまま、ポケットに手を入れて、にがわらいして斯う云った。「うんまあ、天気はいいね。」
 豚は何だか、この語が、耳にはいって、それから咽喉につかえたのだ。おまけに校長がじろじろと豚のからだを見ることは全くあの畜産の、教師とおんなじことなのだ。
 豚はかなしく耳を伏せた。そしてこわごわ斯う云った。「私はどうも、このごろは、気がふさいで仕方ありません。」
 校長は又にがわらいを、しながら豚に斯う云った。「ふん。気がふさぐ。そうかい。もう世の中がいやになったかい。そういうわけでもないのかい。」豚があんまり陰気な顔をしたものだから校長は急いで取り消しました。
 それから農学校長と、豚とはしばらくしいんとしてにらみ合ったまま立っていた。ただ一言も云わないでじいっと立って居ったのだ。そのうちにとうとう校長は今日は証書はあきらめて、「とにかくよくやすんでおいで。あんまり動きまわらんでね。」例の黄いろな大きな証書を小わきにかいこんだまま、向うの方へ行ってしまう。
 
同意調印法は、有名無実ではあるかもしれぬ。いづれにせよ動物たちは強制されて死に追いやられるのだから意味がないものかもしれぬ。
しかしそれは、動物の死への抵抗を露わにすることができる装置である。
 
動物の死へのあらわな抵抗は、フランドン農学校でも表面化する。
 
校長は屠殺を後ろめたいと思う。ゆえに苦笑いしながら話す。
そして、以下のように、回りまわった理屈を持ち出す。
1.動物はいつか死ぬから「この際きっぱり死んでもよい」と思っても不自然ではない。なんでもないことだ。―つまりこれは、死の責任を自然の摂理というところに横着させている。
2.よい待遇をしたのだから、恩返しと思って同意してくれ。―返報規範に訴える
 
 
「ところで実は今日はお前と、内内相談に来たのだがね、どうだ頭ははっきりかい。」
「はあ。」豚は声がかすれてしまう。
実はね、この世界に生きてるものは、みんな死ななけぁいかんのだ。実際もうどんなもんでも死ぬんだよ。人間の中の貴族でも、金持でも、又私のような、中産階級でも、それからごくつまらない乞食でもね。
「はあ、」豚は声が咽喉につまって、はっきり返事ができなかった。
また人間でない動物でもね、たとえば馬でも、牛でも、鶏でも、なまずでも、バクテリヤでも、みんな死ななけぁいかんのだ。蜉蝣のごときはあしたに生れ、夕に死する、ただ一日の命なのだ。みんな死ななけぁならないのだ。だからお前も私もいつか、きっと死ぬのにきまってる。
「はあ。」豚は声がかすれて、返事もなにもできなかった。
「そこで実は相談だがね、私たちの学校では、お前を今日まで養って来た。大したこともなかったが、学校としては出来るだけ、ずいぶん大事にしたはずだ。お前たちの仲間もあちこちに、ずいぶんあるし又私も、まあよく知っているのだが、でそう云っちゃ可笑しいが、まあ私の処ぐらい、待遇のよい処はない。
「はあ。」豚は返事しようと思ったが、その前にたべたものが、みんな咽喉へつかえててどうしても声が出て来なかった。
「でね、実は相談だがね、お前がもしも少しでも、そんなようなことが、ありがたいと云う気がしたら、ほんの小さなたのみだが承知をしては貰えまいか。
「はあ。」豚は声がかすれて、返事がどうしてもできなかった。
「それはほんの小さなことだ。ここに斯う云う紙がある、この紙に斯う書いてある。死亡承諾書、私儀永々御恩顧の次第に有之候儘、御都合により、何時にても死亡仕るべく候年月日フランドン畜舎内、ヨークシャイヤ、フランドン農学校長殿 とこれだけのことだがね、」
校長はもう云い出したので、一瀉千里にまくしかけた。
「つまりお前はどうせ死ななけぁいかないからその死ぬときはもう潔く、いつでも死にますと斯う云うことで、一向何でもないことさ。死ななくてもいいうちは、一向死ぬことも要らないよ。ここの処へただちょっとお前の前肢の爪印を、一つ押しておいて貰いたい。それだけのことだ。」
 豚は眉を寄せて、つきつけられた証書を、じっとしばらく眺めていた。校長の云う通りなら、何でもないがつくづくと証書の文句を読んで見ると、まったく大へんに恐かった。とうとう豚はこらえかねてまるで泣声でこう云った。
「何時にてもということは、今日でもということですか。」
 校長はぎくっとしたが気をとりなおしてこう云った。
「まあそうだ。けれども今日だなんて、そんなことは決してないよ。」
「でも明日でもというんでしょう。」
「さあ、明日なんていうよう、そんな急でもないだろう。いつでも、いつかというような、ごくあいまいなことなんだ。」
死亡をするということは私が一人で死ぬのですか。」豚は又金切声で斯うきいた。
「うん、すっかりそうでもないな。」
いやです、いやです、そんならいやです。どうしてもいやです。」豚は泣いて叫んだ。
「いやかい。それでは仕方ない。お前もあんまり恩知らずだ。犬猫にさえ劣ったやつだ。」校長はぷんぷん怒り、顔をまっ赤にしてしまい証書をポケットに手早くしまい、大股に小屋を出て行った。
 
 ヨークシャイヤは死にたくないという。まともだ。まっとうすぎる主張によって、校長は自分が他者に死を強要している者だということを突き付けられる。自分の野蛮性を改めて暴露される。
 校長は自分の正統性をどうにか保たねばならない。ゆえに、「恩返しもしない」と豚を罵る。
冷静に考えれば、農学校はおのれの都合で豚を飼い、おのれの都合で豚を屠るのだから、校長が「恩知らず」といって怒るのは不合理なことである。
だが校長は怒らなければならない。そうしなければ、自分が残酷な人間であることを認めることになるからだ。
彼はおそらく本気で怒っているのだ;それは「調印させたい」という願望が思い通りにいってないことへの腹立たしさ、経費が回収できないかもしれないことへの苛立ち、投資の回収を妨げているのは豚だという認識………それらが、「動物の福祉に叶ったwin-winな育て方をしている」という認識を、リアルな「ほんとうのこと」として信じるように仕向けている。
「恩知らず」……。手前勝手なプレゼントだ。それにお返しをする義務はあるか。

ムンクの太陽

さくじつ、上野のムンク展へ出向いた。

 

1つだけお気に入りをリンクしたい。

«太陽»
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https://g.co/arts/duxmbmp9ksbzua1b6

ダークな絵々のなかで、

このキャンパスだけはフィヨルドに光りわたっていた。輝きわたっていた。

倦怠感が嫌だとか暗い絵を好まないとかではなく、ただただこの絵だけが妙に白く黄色かったのだ。

照り焼き尽くされるような輝きにあって、ほかの作品の見え方も変わらざるを得ないと感じた。

ムンクのなかで、両者はどのように共在していたのか.

人の住む部屋へ向けて

"機能的な部屋"という
いかにも甘美な響きに、
人びとはときおり身を委ねてしまう。

いや、頭も委ねてしまう。


空間と頭脳とは、ゆるくリンクしている。

雑然とした部屋は 雑念とした視野をあたえ、
モノたちはひしめき、話しかけ、誘惑し、
わが静謐の思料を脅かしてくる。

自室において集中的に作業できた試しがないのは、まさにこのためである。

(つまり私の部屋はきたない!)


今日この日から「年末の大掃除」を始めよう。
わかるか。20日かけて年末までに片付くのかなと不安になるこの部屋を! 

わが思考は正常である。きちんとマックで黙慮したのだから。

機能性の甘美さを、あゝ、この部屋で実現したい。